生活保護相談を担当している、行政書士の三木です。とある出来事(ブログの最後に書きます)を機に、勇気を出して、私自身の生活保護にまつわる実体験を公表することにしました。

昔から勉強熱心で真面目な学生だったと自負する私は、日本で進学校に進学したあと、一年間国の公的支援を受けて米国留学を果たしました。そして、眞子さま佳子さまのご入学で一躍脚光を浴びるようになった国際基督教大学(ICU)へ進学。リクルート入社。
これだけ書くと「どこに出しても恥ずかしくない話」で、ある意味自慢のようですが、これは表向きのきれいな経歴です。

幼い頃の思い出

実は、人には言えない(言えなかった)暗い過去があります。警察官の父親と小学校教員の母親の元に生まれ、横浜の高級住宅街にある大きな新築の家で、幸せな日々を過ごしたのは3歳頃まで。妹が生まれてから、酒に酔って帰った父が帰宅すると毎日夫婦喧嘩が始まり、妹が宙に飛んだ記憶がおぼろげにあります。

父母離婚後、片付けられない女だった母との暮らしは壮絶で、新築の広い家はみるみるうちにゴミ屋敷と化しました。カビの生えた洗濯物や食器が山積みで、雨戸は常に閉まったまま、小学校に着て行く服がなく、連日真夏に同じTシャツを着て行く日々。当時はやりの敷き込みカーペットの豪邸はダニの住処となり、私は重度のアレルギー性鼻炎とアトピーを発症し、夜も苦しくて眠れませんでした。同居の祖母は末期の腎不全で夜な夜な発作に苦しみ、
「ひとみ、苦しい、助けてくれ」
「(母の名前)を呼んでくれ」
という訴えを聞き泣きながら、黒電話から母のポケットベルを鳴らし続けました。しかし、母からの折り返しの連絡を待つも電話は鳴らず、私もおばあちゃんと一緒に死にたいと何度も思いました。

くさい、汚い、と小学校でも常にいじめの対象でした。家に遊びに来たことのあるクラスメートから、
「あいつの家まじできたねーよ」
と悪口を言われましたが、当時はその環境が当たり前で、汚いという自覚さえありませんでした。自分の家や家族の悪口を言われることが、ただ悲しかったのです。

今でも覚えているのは、小学校三年生の頃、ゴールデンウィークに父と父の恋人と熱海旅行へ行くことがうれしくて、
「パパとの旅行までは生きていよう。旅行がおわったら、ビルから飛び降りて死ねばいい」
と学校の窓から外を見て、考えていたことです。

「女の子なんだから家事くらい子どもでもすればいい」
そう母には言われましたが、7~8歳の子どもが大人の見本や指導なく、ゴミ屋敷状態から改善をすることなど到底不可能なのです。

大学に入ってから、掃除の本を購入して、どのくらいの頻度で掃除洗濯をするのかをまず学びました。
余談ですが、子どもの頃にゴミ屋敷で嫌な思いをした反動で、今の私は超潔癖症、家はモデルルームのようだと人から言われます。

小学生のときは、ゴミ屋敷で勉強するスペースもなく劣等生でしたが、中学校に進学してから図書館で本を読むようになり、一念奮起したのです。

勉強ができるようになったら、人生変えられるのではないか、と。それからは、ゴミ屋敷の中で自分のスペースだけは何とか掃除をして、相変わらずの鼻炎とアトピーと戦いながら、進学校合格と留学切符を手にしました。

母は無駄だと言って私立受験をさせてくれなかったので、公立校に落ちていたら就職か中学浪人の道でしたので、まさに崖っぷちでした。

大人になり社会に出て

時を経て、良い大学に進学し、良い就職先に就いても、幼少期の心の闇はなかなか消えませんでした。人間関係をうまく築くことができず、結婚にも失敗しました。そしてシングルマザーになった私は、当時深夜終電まで残業が当たり前のリクルートに在籍し、19:30に全員に頭を下げて帰社していました。

娘は無認可の保育園に毎日長時間預けていたのですが、ある日迎えに行くと娘の前歯が壊死していました。歯医者に連れて行くと、相当強い力で衝撃を受けなければこうはならないと言われました。

保育士はわからないと言うし、長時間子どもの面倒を見てもらっている若い母として、それ以上追及することはできませんでした。その後、17時半に子どものお迎えに行ける会社に転職しました。しかし、平和な日々は長く続きませんでした。

転職後間もなく、リクルート時代の男性のお客様からストーカー行為を受けるようになりました。家も突き止められ窓から侵入され、殴られ蹴られ、車に乗れと言われ、
「このまま車に乗ったら殺されるだろう」
という予感がしたので、通りかかった男性に、「警察を呼んで」と耳元で告げたところ、ストーカー男性が気づき激怒し、路上での暴行が始まりました。

髪の毛を思いきり引っ張られ車に乗せられそうになりましたが、民家の庭の柵に必死につかまり、抵抗しました。その後、1週間頭皮の痛みが続くほどの力でした。近所の人が集まってきましたが、誰も男性を止めてはくれませんでした。

人の目を気にしてか、男性はいったん私の家の中へ退却、警察が来るまで怖いので近所の方の家にかくまってほしいと頼むも、誰も玄関にさえ入れてはくれませんでした。

泣き叫ぶ当時3歳の娘を抱き、警察のパトカーが来るまでの5分間、生きた心地がしませんでした。世間は、なんて冷たいんだろう、そう思いました。

警察に紹介された、DV被害の女性が入る東京のシェルターに娘と急遽入所しました。そこからの通勤は認めらえなかったのでやむなく、せっかく転職したばかりのシングルマザーの私に条件の良かった会社も退職せざるを得ませんでした。

シェルターには最長30日しかいられなかったのと、以前の家はストーカー男性に知られていたこと、職を失い無収入となったことから、生活保護を受けて娘と安心して暮らせるアパートへ引越をしたいと考えました。

しかし、娘を連れて東京の役所の生活保護相談窓口に行くと、けんもほろろでした。
「親がどちらも公務員でしょう。税金で給与をもらっていながら、その娘と孫が生活保護を受けるなんて道理がない。」
「引越費用なんて出せないよ。母子寮に入ってもらうけど、環境は良くないし、そもそも空きがあればの話。」
「娘さんの学資保険を解約してからでないと、生活保護は受けられません。」

見下されたような対応に心が痛み、生活保護は無理だと諦めました。そして、しばらくは合法的な水商売、その後は転職をして英語力を生かした仕事をしながら、行政書士の勉強をしました。

今となっては、当時の私が役所で門前払いをされたことは、不当な行政行為であったとわかります。親の経済力にかかわらず、生活に現に困窮していれば、日本人であれば本来誰しも平等に、憲法で保障された最低限度の生活が守られるものだからです。

また、母子寮などへの施設入所を役所が強要することはできず、また、そうした施設に入らなければ生活保護が受けられないわけでもありません。学資保険も内容によっては、生活保護受給中も継続できます。

保険解約するにしてもすぐにお金が入ってくるわけではないので、本来私自身10年以上前、無職無収入のシングルマザーで困窮していたとき、水商売などしなくても生活保護を受けることができたのです。

行政書士になってから

行政書士として最初から生活保護業務を専門にするつもりはなく、当初は英語力と最近の国内での外国人率増加の波から、ビザ申請などの入管業務を専門にするつもりでした。

しかし、実際に受ける相談は生活に困っているという内容が多く、私は自分の生活困窮の経験もあるので他人事とは思えず、昼夜時間を問わず対応していたところ、口コミでどんどん依頼が多くなっていきました。

今では、おそらく日本で最も生活保護申請書を作成している行政書士になるでしょう。

全国から日々切羽詰まった依頼が来るので、元日以外は昨年は休まず仕事をしました。

必死になって仕事をしていたため、すでに中学生になった娘には、好きな習い事をさせ、お小遣いも十分に渡すことができるようになりました。少なくとも経済的不自由はさせていませんでしたが、心の距離は残念ながら、私の気づかない間に広がっていたようです。

中学三年生の娘は、今日、国立大学付属高校の受験日でした。でも、受験はしませんでした。
「ママとはもう暮らしたくない」
それだけメールで残して、私と折の合わない他県に住む私の母親のもとへ行ってしまいました。

電話も出てくれないので、娘の心中はわかりませんが、ここ数ヵ月、口数が少なくなっていたとは思っていました。大みそかの私の誕生日に、毎年くれていたプレゼントもありませんでしたが、受験前で毎日塾で忙しいからだとさほど気にもしていませんでした。

成人男性と男女交際をするといったメールを携帯でしていたことが発覚し、携帯電話を数週間前に取り上げたり、直前の全国模試で偏差値が落ちたことなども、家出の背景にあったのかもしれません。単に、母親である私への不満ゆえ、離れたかったのかもしれませんし、真実は娘の心の中です。

生活保護に関してお客様からメールがあれば24時間以内に返信し、緊急の対応が必要であれば深夜早朝でも仕事をしてきた私は、娘からすれば悪い母親だったに違いありません。

ただ、背景には、娘をシングルマザーとして必死に育て共に生きてきた15年間があるのだと、わかってほしかった、これも親のエゴなのかもしれません。