雨上がる・・・この手紙を書いている間中、降り続いていた雨は、止んだようです。窓を大きく開けました。新鮮な空気、エネルギーが部屋に流れ込んできて、精神が澄み渡り、体感している世界が一変したような気がしました。「これが本当の世界の姿なんだ」心からそう思えました
奈良県 60代男性 O様
三木ひとみ様
梅雨に入り、気持ちが沈みがちになってしまいやすい季節になりました。だけど、太陽がいつまでも顔を見せず、雨の日が続いたとしても、三木さんがいる処だけ、まるで台風の目に入ったかのように青空が広がり、澄み渡っている・・・そんな情景を思い浮かべています。
三木さんを中心に、半径10m以内にいる人や生き物たちや、家具、食器、壁にかけたカレンダー、そして空気までもが、三木さんのポジティブなエネルギーの波動を受けてキラキラと輝いている・・・1人のちっぽけな人間、たった一人の人間だけど、その影響力はとてつもなく大きいのだと思います。
三木さんの素晴らしいところは、小さい頃より苛めなどの辛いことに度々あったり、社会に出てからも、心ない理不尽な目に幾度もあっているのにも関わらず、いつまでも相手を責めたり、恨み続けたままになっていないことです。
相手を恨んだりすることに無駄に使ってしまう時間やエネルギーを、むしろ恵まれない人々を助けるために使うことに転換している。
過去ではなく、未来に焦点を定めている。私はその生き様に、人間なら誰もがもっている、どんな逆境からでも立ち直ることのできる「蘇生力」をはっきりと見させていただいたのだと思いますし、私と同感な人はおそらく数多くいることでしょう。
いつまでも三木さんらしく、光輝き続けてください。そのためにも、自分自身を誰よりも(誰よりも!)大切に扱ってください。
この世界にたった1つしかない、財宝なのだと思ってください。
その上で、今までのやり方(生き方)に飽き足らなくなったときには、迷わず魂が望んでいる方向に舵を切りましょう。そうできる賢明さは持ち合わせていらっしゃるでしょうが・・・。
理解不能な不思議なことが、私たちに起こりました。先日、三木さんからお菓子を送っていただきました。早速いただかせてもらおうと思い、梱包を解き、包装紙を開いて中を見た瞬間、妻の顔がぱぁーっと明るくなり、笑顔になったのです。私はその顔を見て、驚きました。病院から戻って4ヶ月、こんなに明るい笑顔を見たことがなかったからです。
「まだ食べてもいないのに、どうしたんだろう?」
私は嬉しいというより、いつもと違う妻の笑顔に戸惑いを感じました。妻は普段から、嬉しいとか悲しいとかいった思いを言葉にして表現することを苦手にしていましたので、確認したいことや疑問に思うことがあっても、たずねたりすることを私は控えています。よほど嬉しかったのだとしか、言いようがありません。更にその日を境にして、目に見えて妻本来の言動や行動が増加してきました。
私の背後から、こっそり近づいてきて悪ふざけをしたり、私をからかうようなことを言ったりすることも急に増えてきて、表情に精気が蘇ってきたことに驚きもしました。ある時、夜中に「アイスクリームが食べたいので買ってきて」などと、ふざけたことを言ったりしましたが、元気な頃の妻の振る舞いそのものでした。そして気づいたときには、病院から戻ってきた時の暗く沈んでいて何かに怯えているような表情は、すっかり消え失せてしまっていました。
退院時に主治医から、ひざの状態はかなりよくなっているので、私が付き添うのであれば、2階へ上がっていっても大丈夫だろうと言われていたのですが、妻は怖がって私がいっしょに上がろうと誘っても嫌がっていました。だけど、三木さんからお菓子が届いたときから、何を思ったのか、2階へ上がってみたいと言い出し、私といっしょに上がるようになっていきました。
そして今では、「私がいないときは1人では上がるな」と注意をしているのにも関わらず、1人でヨチヨチ2階へ上がっていき、ベランダで洗たくものを干したりしています。
何故、この様な変化が急に起こったのか、私にはよくわかりません。私はスピリチュアルな感性を持ち合わせているタイプの人間ではないので適当なことは言えませんが、このことには、三木さんという存在の本質的な部分が深く関与しているように思えてなりません。
距離がどんなに離れていようが、会ったことがあろうがなかろうが、心と心が共鳴しあって双方向で影響しあうものだということを、現実にかいま見たように思えてなりません。
「何故?どうして?」とか、「どのようにして?」とか考える必要はないし、考えてわかることではないのかもしれません。
起きたことをあるがままに受け入れて善処すればいいのでしょう。
2人共、自然な前向きな状態になれているときに、引越しの日を迎えられたことは幸いでした。引越しは何の問題もなく、すべてがスムーズでした。近隣の人たちが皆さんフレンドリーなので、ホッと安心もしました。引越してきて最初に気づいた「異常」は、ここはやたらと地域猫が多いところだなぁということでした。
家の中に居ながら、窓などから確認できた猫は7匹もいました。それぞれに特徴があったので、名前を付けてみました。チャシロとか、シマシマとか、ジジ(黒猫なので)とか、ウシ(ホルスタインのようなので)とか、適当に名付けて遊んでいます。
その中に、なかなか私たちになつかず、いつも警戒心を持っていてこちらを注意深くジーっと見ている猫がいました。元々は白猫だったのでしょうが、汚れて茶色くなり、毛繕いもやる気がなさそうで(かなり高齢なようです)ほったらかしにしているようなので、遠くから見ると、まるでボロぞうきんを寄せ集めてきて丸めたような姿になっているので、ヨレヨレと命名しました。
ヨレヨレを見続けていると、日に日に愛着が湧いてくるようになりました。その存在そのものが、何故か他人とは思えなくなってきたのです。
ある日、隣家と我が家を仕切っているブロック壁の上でくつろいでいるヨレヨレを発見したので、逃げないぐらいのところまで近づいていき、話しかけてみました。
「おやおや、そんなにボロボロになってしまって・・・今まで頑張って生きてきたんだな、苦しいことも、いっぱいあっただろう・・・。おまえのその姿は、懸命に生きてきたんだという証だな。御苦労さん。私たちはここに住むことになったけど、いいかな?」と。
ヨレヨレは相変わらず、私をジーっと見ているだけでしたが、その表情を見ていると、「どうでもいいことニャン、好きにしたらいいニャン」とでも言っているようにも見えました。
私たちは、いつの間にか傲慢さの頂点に来てしまっているようです。まるで、この地球にいるのは自分たちだけで、自分たちさえよければそれでいいと決めつけ、そのことに何の疑いも抱くことはないようです。自分たちが決めたことは、他の生き物たちも同意し従うのはあたりまえだという未文の法律があるのでしょう。
ネイティブアメリカンの人たちは、動物たちのことを「4本足の人」と呼び、鳥たちのことを「空を飛ぶ人」と呼んでいたといいます。
そして、生きとし生けるすべてが調和し、共存していける、持続可能なコミュニティーを築き上げ、何千年にも渡って平和な暮らしを送ってきていたのです。
生き物すべてが調和し共存していける世界を築いていかなくてはいけません。それは私たちのためでもあります。また、そういう世界を築きあげることのできる『能力』は、実は生き物の中で人間だけに与えられているのも確かなことです。ならば、人間がこの地球上で担っている役割は、明白です。
私たちが自らの心に巣食っている傲慢さに気づき、自らの持っている『能力』に目覚めたとき(その両方はほぼ同時に起こるはずです)その時、初めて理想的な平和な社会に向かって歩みを開始できるのだと私は思います。
(お客様のお名前)
雨上がる・・・この手紙を書いている間中、降り続いていた雨は、止んだようです。窓を大きく開けました。新鮮な空気、エネルギーが部屋に流れ込んできて、精神が澄み渡り、体感している世界が一変したような気がしました。「これが本当の世界の姿なんだ」心からそう思えました。
今、社会にはどす黒い、ねっとりとした雨が降り続いています。悲しくて辛いことですが、その雨は私たちの心が降らせているのです。多くの人が、そのことに気づいたときこそ・・・雨上がる・・・。
イエス・キリストはユダの荒野で40日間に及ぶ断食を行いましたがその時、悪魔が現れて様々な甘言を用いてイエスを誘惑します。
「おまえパンを食いたいのだろ?おまえの分だけではなく他の飢えている連中の分もやるぞ。」
「この国の王にしてやろう。そうすれば、おまえは多くの人を救うことができるじゃないか。」
「大祭司にしてやろう。それこそ、おまえの夢ではなかったか。」
悪魔にはイエスが何を欲しているのかがわかっていたし、悪魔にはその人の弱点が手に取るようにわかるので、そこを突いてきたのです。
しかしイエスは「たとえ人を救うためや、そうするための地位に就けるのであっても、悪魔の声であるのならば従わぬ。」とすべてを拒否されます。
私はこの事から大切なことを学べました。悪魔の誘惑は聖者のような一部の人だけが経験するものではなく、私たち人間すべてが日常生活を送る中で遭遇するものであり、生きるということはこの悪魔の誘惑と常に対峙し対処するものなのだと。そうする中で私たちは自分がどんな人間なのかを決めているのだということが見えてきました。
ちなみに悪魔がどうして、人の弱点(過去の過ちも含め)を執拗に突いてくるのかわかりますか?それは悪魔は、その人の弱点がいつの日にか、その人の大きな長所(武器)に変容するということを知っているので、それを恐れ弱点が弱点であるうちに、その人の潰してしまおうとしているからなのです。悪魔はとても賢いのです。
三木さんの半生は(特にこの数年は)、ある見方をすれば絶えず悪魔の誘惑と闘い続けた日々ではなかったでしょうか?「闘うのを止めよう。そうすれば楽になれる。」もしかしたら、その様なことが脳裏をよぎったことも、あったかもしれません。
しかし、どんなに孤独で辛い日々であっても、耳元で甘い誘惑の声を囁かれても毅然とした態度を崩されなかった。
今、社会を見回していると困っている人々のためにとか弱者のためにとか叫び、私はそのために一生懸命、頑張っていますと主張されている方を多々、お見受けしますがその方たちがどれほど弱者の気持ちがわかって寄り添い、助けようという覚悟ができているのか私には疑問です。
その覚悟がないのなら黙っていなさい、というのが私の本音です。
三木さんには自らが弱者の悲哀を、厭というほど味わった過去があります。だからこそ言動と行動とを一致させることができるのだと思うのです。言動と行動を一致させることができる稀な人です。そう、稀なのです。だから言動と行動が一致しないのは当たり前のことで、それがこの社会の常識だと思っている人たちからすれば「常識外れ」の三木さんに、どう対処していいのかわからず頭が混乱してしまい血走ってしまい、貧しい人間性を露呈してしまった結果、権威の力で押さえ込むという最も幼稚で原始的な方法で事態の終息を謀ろうとするに至ったのでしょう。
これからですね、三木さん私たち人間は生きている限り、悪魔との闘いは続きます。何故なら
悪魔は私たちの心の奥深くに住み着いていて、永遠に離れることはないからです。
「お爺さんとお婆さんは、いつまでも仲良く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。」
などということは有り得ないのです
皆さん、悪魔を見たことはありますか?全身、真っ黒で耳はピーンと立っていて目と口元はつり上がり、長い尻尾の先が尖っている………違います!悪魔には美男美女が多いのです。それに悪魔は人助けが大好きで得意でもあります。人が喜ぶことなら、どんな苦労も惜しまずやります。
但し、誰かが注目しているときにだけ、それをします。悪魔にとっては誰も見ていず、評価もされない人助けに何の意味もないからです。………皆さん、悪魔を見たことありますでしょ?
近所の地域猫たちは「この夫婦は恐くない」とわかったのでしょう。かなり我が物顔で振る舞うようになってきました。だけどヨレヨレは、もう1ヵ月近く姿をみていません。多分、あちらの世界に逝ってしまわれたのでしょう。
挨拶もしたし思い残すことはなかったのだと思います(^_^)