ひんやりとした空気が漂っていた早朝の大阪の街に、当時の事務所へ三木さんにお会いしに行ったことを、そして、その時、迅速で誠実な対応をしていただけたことを、懐かしく思い出していました
奈良県 O様 60代 男性
三木 ひとみ様
夏も終わろうとしていたある日、まだ人通りも少なく、ひんやりとした空気が漂っていた早朝の大阪の街に、当時の事務所へ三木さんにお会いしに行ったことを、そして、その時、迅速で誠実な対応をしていただけたことを、懐かしく思い出していました。
あれからもう7年!もの歳月が流れ過ぎようとしています。その後、的確なアドバイスを多忙な中であるにも関わらず与え続けてくださったおかげで、生活保護を受給でき、苦境を脱することができました。私の半生に於いては特別な色彩を帯びはじめていたこの7年間、川の水が淀むことなく流れていくように途切れることのなかったこのご縁を感慨深く見つめ直していました。
人は、ちょうどよいタイミングで出逢う必要のある人と出逢うようになっているのだと思えたのです。
だけど、当時の私の常識からすれば、生活保護を受給しているのは不本意な状態であるという認識でしかなかったので、とにかく早く社会復帰しなくてはいけないという考え方しかできませんでした。
複数の病院で、検査や治療を受けた結果、私の目や心身の状態はもう元通りにはならないと判断したので、今までと同じ職や働き方を続けていくことを断念し、新しい仕事を探しはじめました。
ハローワークに通いながら調べていく中で、マンションの管理人なら以前、施設警備の仕事をしていた経験もあったので、やっていけると判断し、探していたところ、私の病状に理解を示してくれる管理会社が見つかり正式に応募し、面接日も決まりました。
何としても合格し、働きはじめ、以前のように夫婦2人で好きな旅行や食べ歩きをしながら、仲良く暮らしていくことを思い描き、楽しみにしていたとき、妻が建物の3階から転落し、大怪我をしてしまいました。
ジョン・レノンがビューティフルボーイ(レノンが息子のショーンに宛てた手紙が歌詩になっていると言われています)の中で、こう歌っています。
「可愛くて美しくて健やかな愛しい我が子よ・・・あれやこれや、せっせと計画を練っているときに思ってもみなかったことが起きてしまうのが人生なんだよ」
妻の身に降りかかった災厄によって、私の立てていた計画は台無しになってしまいましたが、私の身に起きた本当の「思ってもみなかったこと」とは生活保護受給にはじまり、妻の大怪我、そして情報遮断しての生活を開始するに至るという、この7年間の流れの中で知ることになった、思ってもみなかあった別の計画のことでした。
この7年間の生活の中で、私の人生航路が、長年慣れ親しんできた既知の海域から離れていき、未知の海域へ、ぐぐっと舵を切り船首を向けていたことに気づいたのはつい最近のことです。
今まで慣れ親しんできた生活や私を楽しませてくれていた数々のおもちゃには、徐々に興味をなくしてきています。
生活保護を受給するに至った経緯は人それぞれでしょうが、そういう立場になることを願っていた人は誰一人としていないはずです。
だけど、自分が道足りた人生を歩んでいくためには、必要なものだと頑なに信じて疑いもしなかったことが、実はそこまで重要なことではなく逆に自分を狭い枠内に閉じ込めてしまう原因となり、苦しませてきていたものだと気づくことができたのなら、生活保護を受給するという状態も意味があることではないでしょうか?
今まで見たくても見ることができなかった、何故か自分を生きづらく息苦しくさせてきていたものに正体を現していただけるのですから。
妻がリハビリを終え家に戻ってきて、1年半が経過しようとしています。元々、ペタンコだった顔が、地面に顔から衝突したため益々、ペッタンコになって帰ってきましたが、変わったのは顔つきだけではありません。
家の中で、よくふらついて転けそうになったり、壁にぶつかったり、手で掴んだものを簡単に落としてしまったりするのですが、そういう姿を見ていると昔の元気だった頃のことを懐かしく思い出し、寂しい気持ちになったり、これからの生活に不安を感じてしまったりしました。
だけど、何故か、本人からはネガティブなオーラが出ておらず、自分の身体の不自由さをまったく気にしている様子がなく、むしろ楽しんでいるように見えることに、違和感を持っていました。頭を強打したので、どこかのネジが緩んでしまったのだろうか?
しかし、退院時に頭部CTやMRI検査を受けていて、生活に影響を及ぼすような脳へのダメージはないという主治医の見解でした。
ある日、ベッドから起き上がろうとして体を支えきれず、床に転げ落ちてしまったのですが、楽しそうに、ほふく前進をしながら遊んでいました。
また、別の日、浴室で手すりを掴みそこねて浴槽内に落ちて溺れかけたとき「肥溜めでなくてよかった」などと言って笑っていました。
病院でのリハビリ生活は、約1年続きましたが、その間、理不尽な扱いを幾度も受けたようですが、誰かに文句を言ったり、責めたりしたことはなかったようです。
家に帰ってきてからも、私に対して不平不満を口にしたことはありません。一度、夜中に目を覚まし、「アイスクリームが食べたくなったので買ってきて」などとふざけたことを言いましたが、それ以外は、私を怒らせるようなことは一度もありませんでした。
食事は私が作りますが、その下手くそな手抜き料理をいつも「おいしい、おいしい」と言って喜んで食べてくれています。
自分の歯はすべて砕けて抜けてしまい、総入れ歯になったので微妙な味がわからないことが幸いしているみたいです。
当初、私は妻に対して「あなたは不自由な身体になってしまったのだから、不幸なのだ」という憐みの気持ちで接していましたが、妻は事あるごとに、「そうじゃない!」と態度で示し続けてくれたおかげで、納得がいきました。妻は過去を置き去りにする能力に長けているようで、あるがままを抵抗せずに受け入れていて今だけを楽しもうとしているだけなのです。
現在の住居に引っ越してきて1年が経過しました。
妻がよく「ここは静かだね」と口にします。近くにボーリング場や消防署があり、鉄道も走っていて、それなりの騒音はあって当然だと思うのですが、家の中にいると、インフラから出される音はほとんど聞こえてこず、野鳥たちのさえずる声が聞こえてくることによって、より静寂さが際立って感じられています。そして、隣接している草地で、この春、たくさんの蝶々が優雅に舞いはじめ、のら猫たちがその蝶々を追って遊んでいる風景は、私の心を和ませてくれています。そして、外部からの情報を遮断する生活を送り始めたことで、この住環境の静穏さを、よりいっそう心地好く感じるようになってきていたある日、フッと思ったのです。
法華経の信解品に無上宝珠不求自得という言葉がありますが、私が心の底から望み、私にとって本当に必要なものを自らの努力によって得るのとは別の手段で得ることになったのではないだろうか?と。
妻が一生寝たきりになるだろうと、手術をした執刀医から告げられたとき、私には為す術はなく、無能なら無能なりに、今までそれなりの努力をすることで生き抜いてきた私にとって、この時ほど自分の無力さを思い知ったことはありませんでした。
まるで自分よりはるかに力の強い猛獣に捕らえられ、押さえつけられてしまったかのように、戦うことも逃げることも何もできず、妻の回復を願いながら時間が過ぎていくのに任せているしかありませんでした。
今から思えば、この「何もしないで一人でいる時間」が、私には必要だったような気がしています。古酒が余計なことを何もしないからこそ熟成されていくようなものだったのかもしれません。
その孤独で静かな時間を過ごす中で、私には生前に決めていた計画があったような気がしてきました。
運命という名で呼ばれることもあるその計画を変えることはできないようですが、文句を言いながら生きていくのか、あるがままを受け入れて生きていくのかは、その人の自由意志に委ねられているのだと思えました。
私の内部騒音(心の中でのおしゃべり)が鎮まってくるにつれて、眼前の霧も徐々にゆっくりと晴れてくることでしょう。
それすれば、今は見ることが叶わずにいる「景色」を、いつの日か見ることができるかもしれません。そうすれば、三木さんが以前、おっしゃっていた、心から望んでいるということ・・・生活保護を誰も受ける必要がなくなる社会になってほしい・・・という悲願、実現するのおは容易なことではないと思われるこの悲願・・・私の力の及ぶようなことではありませんが、突破口となるような「思ってもみなかったこと」を導き出せるかもしれません。
だけど、急がないでおきましょう。善きことは私たちの思惟も及ばない長い歳月をかけて形を為していくものです。
おおらかで悠然とした心を持って共に歩んでいきましょう。
三木さん、榎田さんをはじめ、スタッフの皆さんの未来が、豊潤な果実と澄み渡った風景に彩られた、満ち足りたものになりますよう祈っております。
最後に・・・・人には、誰もがこの世でしなくてはいけないことが必ずあるということを、その人の代わりになれる人はこの世に誰一人としていないということを、だからこそ、この世に生まれてくることになったのだということを、そしてすべての人は等しく尊いのだということを、覚えの遅い私に教え諭してくださった、御名を何と呼ぼうとお気になされない方へ、決して言葉にすることはできない想いを込めて。
(お客様のお名前)