私たち日本人の中で、飢えることなく食べれて住む家もあることに、心から感謝できている人が、いったいどれだけいるでしょうか?
奈良県 70代 男性O様
三木 ひとみ様
生活保護を受給しているものとして、同じ立場にいる人たちの生活のことによく思いを馳せます。どういう生活をされているのだろうか、心から望んでいることとは何だろうかと。
受給をされている方々の状況は、千差万別なのでしょうから、「こうあるべきだ」「こうすればいい」とか、軽々しく言えませんが、私にも何かできることがありそうな気もしています。
私は、心の在り様をポジティブな方向に変えるために散歩に出かけたり、無給のボランティア活動に参加することを勧めたくなるのですが、それがしたくても、できない方や、それをすれば、かえって状況を悪化させてしまう方もいらっしゃるはずです。
その人の置かれている状況がどのようなものであっても、住んでいる国の文化がどうであっても、いつの時代であっても、変わることのない、普遍的なものがあるはずです。保護を受けているからといって、それは変わらないはずです。
人を思いやり、労り、理解しようと努めること、そして感謝の気持ちを決して忘れないこと。頭の中でいろいろと小賢いことをあれやこれやと考えていても、いつもここに戻ってきます。このことは、私にとっては忘れてはいけない真実なのだと思っています。
私が知り合った、保護を受給されていた方で、こういう人がいました。その方は、精神疾患を子供の頃、苛めにあったことなどが原因で抱えていて、それが悪化したことで、保護を受給するに至ったのですが、その後、足にも障害を負ってしまい、とても辛い思いをされていたようです。だけど、この方は寂しい思いをすることも、弱音を吐いたりすることも、誰かを責めることも、あったでしょうが、そこに居続けませんでした。
その方は、普段は歩行器を使用して生活をされていたのですが、その歩行器を使ってよく外出され、道で誰かに会ったら、知らない人であっても「こんにちは、元気かい?」などと声をかけ続けていました。このパタリロそっくりの54歳(当時)の声がけおじさんは、助け合うことを忘れてしまい、頑なになってしまっている街の人たちの心を融かしていこうとしていて、誰もが助け合って暮らしていける社会になってほしかったのです。
人に冷たく、あしらわれることの多い半生だったので、誰よりも、人を思いやれる、温かい心の大切さが身にしみてわかっていたのだと思います。この声がけおじさんは、保護を受けていられることに「有難いなあ」と言うのが口癖でしたが、私と会ったとき、何度もそう言うものだから、「うるさいなあ、わかっているから」と言ってしまったことがありました。
その感謝の気持ちがあったので、自分でもできることは何かないかと考え、できそうなことを見つけたので、生活保護という贈り物のお返しをしていたのでしょう。
働くことができず、お金もなく、病気や障害があって辛いことも多い中で、人を思いやり、労わる優しい気持ちを失わず、生きている人は、どこにでもいます。そういう人の多くは、人の称賛を得たりすることに興味がなく、自己主張も強くないので、私たちの近くにいても気づきにくいのです。
この声がけおじさんは、行動で示してくれました。今、自分が持っていなかったり、不足しているもののことで嘆いたりせず、今、既に手元にあるものが、かけがえのない贈り物だと気付き、感謝できる心の大切さを。
飢えることなく、食べれて、雨露を凌げる住むところがある・・・私たちは、このことを当たり前のことだと思ってしまっていますが、その当たり前のことが、当たり前でない暮らしをしている人たちが、この地球上に何億人もいるということは、三木さんもよく御存知のことだと思います。
私たち日本人の中で、飢えることなく食べれて住む家もあることに、心から感謝できている人が、いったいどれだけいるでしょうか?
声がけおじさんは、コンビニに買い物に行った帰りに、木材を運搬中のトラックに衝突され、亡くなりました。雨の中を傘をさしていたので、信号が赤になっていたのを見落とし、渡ろうとしてしまったということです。
きっと、向こうの世界でも、出会う人みんなに「こんにちは、元気かい?」と笑いながら話しかけて、みんなを笑顔にしていることでしょう。
話題を変えます。先日、色相環を見ていて、青紫と黄色は互いに補色で、自然界では最もかけ離れている2色なのだということを知りました。色の組み合わせを作るとき、この2色を隣り合わせると、より鮮やかに見えます。青紫と黄色は、互いに要求しあっていて、補完しあっているのです。
不思議です。色というのは、生きているわけではないのに、まるで生きているかのように振舞っていると感じることがあります。
部屋の壁や家具の色、自分や他人が着ている衣服の色など、色の影響を無意識的に誰もが受けています。
ある漫画家の方が言ってましたが、赤は情熱や怒りを、青は不安や絶望を、黄色は幸福や期待を、登場人物の心理描写をするときに使いますと。
青紫と黄色に限らず、すべての色には、特質と役割があります。人間といっしょです。
紫と黄色のおりがみで鶴を折ってみました。60年ぶりに(笑)。紫と黄色のコントラストは、私の目の網膜細胞を刺激し、脳の視覚野に伝達されたとき、私には2羽の鶴が全く違う世界にいながら、仲睦まじく寄り添っている夫婦のように見えました。
私は、贈り物を受け取れたようです。そして、「ありがとう」「やるじゃないか」という感謝と親しみを込めた思いを、紫と黄色の折り鶴に贈りました。
人間と色、生命がある、ないという相対的な思考の枠組みを飛び越えて、ここにも豊かなレシプロシティ、相互作用、持ちつ持たれつの生きた力が働いていました。
私たちは毎日、意識できている、できていないに関わらず、たくさんの贈り物を受け取っています。だけど、それは私たちがずっと持っているものではありません。贈り物は、動き続けることで、生命を宿し、流れ続けていきます。
もし、誰かが受け取ることばかり考えて、与えようとしないのであれば、川の流れが滞り、淀んでいけば濁っていくように、その人のところで悪臭を放つようになります。
与えることのできる贈り物(形のあるものとは限りません、形のないものにその源があります)が増えていけば、受け取ることのできる贈り物もまた増えていくことでしょう。まずは、与えることが先です、受け取るのはそれから。
その贈り物を、保護を受けているすべての方に受け取っていただけることを私は願っています。そして、保護を受けている方は、その贈り物を受け取るのに、値する人たちだと信じています。何故なら、最悪の出来事に遭遇しなければ、受け取ることのできない贈り物もあるからです。