榎田先生と生活保護(前編)
行政書士法人ひとみ綜合法務事務所で生活保護相談を担当している、行政書士の三木です。私自身の生活保護にまつわるエピソードは以前ブログに書いて、プロフィールにも掲載しています。
今回は、代表行政書士の榎田啓先生がなぜ、日本国内でも屈指の生活保護相談、申請書作成を担う行政書士事務所の代表となったのか、知られざる驚くべき秘話を初公開します。
榎田先生と、大手外資企業(Cisco Systems G.K.)でトップセールスマンとして20年以上勤務されているお兄様。競争社会の外資営業で、これだけの勤続年数は珍しいです。私が勤務していたリクルート社でも、営業職社員の入れ替わりはとてもシビアでした。成績優秀者として毎年海外旅行に家族ぐるみで招待されるそうです。
プロフィール
榎田啓先生は、私立小学校教員のお父様、お母様は公務員(保育所の先生)、お兄様という、日本の典型的な幸せな家庭でお育ちになりました。ご両親は共に戦争経験者、長崎ご出身のお父様は五島列島だったために被爆は免れたものの戦後孤児となり、香川県出身のお母様も借金で夜逃げという壮絶な子ども時代(当時は右を向いても左を向いても、貧しい家庭ばかりだったのでしょう)、逆境に負けず懸命に勉強され、立派な職業に就かれ、家庭を築かれました。
榎田先生も勉強熱心、真面目な優等生で、中学、高校では毎年生徒会役員やクラス委員になってくれと担任の先生から頼まれたそうです。行政書士会でも副支部長を10年歴任されています。ちなみに、私はそんなことを担任から頼まれた経験がまるでないので、そんな人がいるのかと、榎田先生の学生時代のエピソードを聞いて心底驚いたものです。私はPTA会計の不正に気付き、組織改革を掲げてPTA会長に立候補し、落選した経験はあります。(なんと選挙の方法は、「拍手の音の大きさ」で決めるという画期的なものでした。)
大阪府行政書士会の総会でも質問する少数派なので、私が榎田先生のように役員になることはないでしょう。(意見をする人は組織内においては目の上のたんこぶですから・・・。)
事務員の原さんも、生徒会長に毎年立候補して、毎年僅差で落選(落選歴3度!もはや鉄の心臓といえるでしょう)。男子からはブーイング、女子からは歓声。明朗快活、容姿端麗な原さんはクラスで男子からモテたために、女子たちから壮絶ないじめに遭っていたそうです。神戸教職員間のいじめの報道があった時分も、こんなことを話してくれました。
「激辛カレー、私も教室で女子グループから食べさせられましたよ!女子の友達は同じクラスには、見事に一人もいませんでした。」
同じクラスで原さんの味方をすると、自分も仲間外れにされてしまうので、友達になりたくても声をかけずらかったのでしょう。原さんは心優しい、若く聡明な、とても素敵な女性です。
出張先ホテルロビーで仕事の最終確認をしているのは、左から原さん、榎田先生、アルバイトスタッフの武田さん。
榎田先生の話に戻ります。国立大学である高知大学を卒業後、東証一部上場企業『アイフル株式会社』に就職。就職氷河期時代真っ只中のことでした。
中・高・大学と柔道一筋で、その貫禄ある雰囲気からいじめにも遭わず、幸せな子ども時代を過ごされた榎田先生は、社会に出てから初めて壁にぶつかりました。大手消費者金融という仕事柄、血も涙もないような対応(借りたお金を返すことは当然のこととはいえ・・・)を目の当たりにし(闇金などではないので合法的な対応とはいえ、それでも尚・・・)、アイフルを3年足らずで辞職。
行政書士試験合格から開業へ
その後、実家に帰って昼夜逆転のニート生活。半年ほど、引きこもってゲームばかりする生活をしたそうです。どうしようもない自分を何も責めず、美味しい食事を三度出してくれるお母様に甘えていてはいけないと、一念奮起してゲームを全て処分(何だか小学生のようですが)。
今まで生活費を実家に入れなかったことを大いに反省し、パチンコ屋で仕事をしながら資格勉強を開始したそうです。嫌煙家の榎田先生は、タバコの臭いで気分も悪くなったそうですが様々な誘惑にも惑うことなく(生活保護受給されているお客様でパチンコ屋出身の方は多く、パチンコ屋で働きながら休日はパチンコに興じ借金をかさねてしまうケースが王道のようです)、宅建、簿記、個人情報保護士、行政書士と次々資格を取得し、社員登用を何度も断ったパチンコ屋をついに辞め、独立開業に至りました。
持ち前の勤勉さと協調性ゆえ、電子化により次々変わりゆく分野の波に乗り、自前のホームページで集客をする一方で、行政書士、税理士、司法書士の先生からも電子定款認証やホームページ作成など得意のIT関連の依頼が絶え間なく(大阪府行政書士会の南大阪支部公式ホームページの管理運営も榎田先生が有償で担っています。)、個人開業の行政書士として10年目を迎え、3年以内に廃業する行政書士が多い中、榎田先生は再び順風満帆の人生に自ら軌道修正されたのです。
ここまで読まれて、
「愛情あふれ、経済的にもニート生活を許容してくれるような頼れる実家がある榎田先生は、生活保護とは無縁ではないか?」
と思われたかもしれませんね。
榎田先生の優しいお人柄ゆえ、ここから行政書士としての榎田先生の歯車が狂っていく・・・ではなく、行政書士法人ひとみ綜合法務事務所の代表へと駆け上っていったのです!
行政書士法人ひとみ綜合法務事務所の代表になってからは、日本全国めまぐるしく出張の日々。SAにてパチリ。
以前にも書きましたが、行政書士として正当に業務を行うためには、各都道府県にある行政書士会に登録、所属することが必要です。私も大阪府行政書士会に登録する際に30万円前後、入会してからも毎月の会費(個人会員、法人会員それぞれに会費は発生します)をおさめています。大阪府行政書士会には16支部があり、榎田先生は法人が所属する南大阪支部の広報部長、副支部長を歴任されています。
元政治家先生との出会い
あるとき、新人行政書士ながら大阪で市議を長年務められた元公務員の地元では有名な先生が南大阪支部に入ってきました。榎田先生はじめ南大阪支部の役員の先生方が小中学生だった頃に、市議として演説されていたような「新人行政書士」ですから、なんとなく皆さん近寄り難かったようです。持ち前の親しみやすさから榎田先生はその元政治家新人行政書士の先生に気に入られ、その先生の行政書士事務所のホームページ作成を頼まれました。同時に、行政書士実務の相談や新規開業、顧客獲得の方法まで、コンサルのようなことまで無償でお手伝いされたそうです。
いえ、無償でというのは語弊があるかもしれません。金銭対価はなかったものの、食事はご馳走してくださったようです。
長年共産党議員だったその新人行政書士のご年配の先生は、生活困窮者が憲法第25条で保障された最低生活ができていないのに、なんだかんだと役所で門前払いをされ、共産党事務所に相談に来る人が絶えなかった。相談に来ている中、生活苦で自殺した人も少なくない。政治家に相談できる人だけが生活保護を受けられるのではおかしい、誰でも気軽に相談できる街の法律家である行政書士が生活保護相談や申請サポートをしてはどうか?と榎田先生に相談されました。
本日(2019/12/1)の榎田先生のお仕事のご様子。民泊業務や風俗営業許認可の図面作成も外注せず、榎田先生自らCADを用いて作成されます。
今でこそ生活保護を扱う弁護士や司法書士、行政書士も増えてきましたが、当時はほとんど生活保護業務を扱う士業事務所のない中、生活保護のホームページをその先生のために業務対価なく無償で作成してあげたのです。
ホームページを開設した当初から、まだ競合他社もなかったため全国から一斉に生活保護相談の電話やメール問い合わせが五月雨式に入るようになりました。行政書士として仕事が軌道にのった元政治家の新人行政書士の先生は、
「榎田君、ありがとう!」
そうおっしゃって、榎田先生に焼き肉をご馳走してくれたそうです。榎田先生は一切の対価を要求することもなく、役に立ててよかった、と思ってご自分の業務に再び専念されるようになり、いったん生活保護業務とは離れました。
元政治家先生との縁
そこから時を経て2016年、私、行政書士の三木ひとみが生活保護相談を次から次へと受けるようになりました。当時私はホームページで宣伝することもなく、ただ口コミで生活保護の相談や依頼を多く受けるようになっていたのです。そんなとき、今では解決方法がすぐにわかる内容ですが、当時の私からすると「二進も三進もいかない」状況に陥り、プロとして恥ずかしながら過去の事例ですので公開してしまいますが、
『同業の、もっと生活保護に詳しい先生に相談しよう』
と、思い立ったのです。
「大阪 生活保護 相談」「生活保護申請 サポート 無料」
「生活保護申請代行」「生活保護 家族 離婚」「認知症 生活保護 後見」
色々な検索キーワードで調べた結果、ここの行政書士事務所の先生なら信頼できそうだ、とたどりついたのが・・・榎田先生が開業当初にサポートをしてあげた、元政治家の先生の事務所だったのです。
元政治家の行政書士の先生は、電話口でもとても親切でした。
「いつも忙しくて事務の女性が電話対応するから、私が直接電話に出られてラッキーだったね。」
そうおっしゃって、私の疑問に答えてくれました。
その1週間後のことでした。
「生活保護の相談が全国から相次ぎ、とても手が回らない状態だから君が既に30件以上生活保護申請書を作成した経験があるなら、一緒にやらないか?」
という電話があったのです。大阪市北区の裁判所近くという好立地の行政書士事務所へお邪魔し、とんとん拍子に合同事務所で一緒に業務を行うことになりました。
後編へ続きます。
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