行政書士の三木です。
二十四節気の立冬(11月8日)も過ぎ、天皇陛下の即位を披露するパレード「祝賀御列の儀」が行われた本日11月10日日曜日。
久しぶりに、午後は仕事の予定を空けて、小学4年生の息子と母子水入らずの時間を過ごしました。

夜はクリスマスのイルミネーションで観光客も多くにぎわう御堂筋ですが、日曜日の日中、平日サラリーマンでにぎわうオフィス街の淀屋橋周辺は人もまばらです。

息子と二人で、銀杏並木を散歩しながら、途中の公園では手作りのお弁当を広げました。

息子の喜ぶ顔が見たくて、つい作り過ぎてしまいました。でも、仕事終わりの天王寺オフィス(四天王寺)から淀屋橋まで1時間ほど歩いたので、二人ともお腹はぺこぺこ、完食しました!

史跡(緒方洪庵旧宅及び塾、昭和16年指定)・重要文化財(旧緒方洪庵住宅、昭和39年指定)の適塾(所在地:大阪市中央区北浜三丁目三番八号)に到着。商都大阪北浜のオフィス街のど真ん中に、江戸時代の町屋の姿がぽつんとあるので、遠くからでもすぐわかります。

この建物は、船場の大火があった江戸末期1792年(寛政4年)以降、緒方洪庵が1845年(弘化2年)に買い受けるまでの間に建築されました。適塾はもともと、1938年(天保9年)に大坂瓦町に開かれたのですが、教育者である緒方洪庵の評判はあっという間に全国に広がりました。北は北海道から南は鹿児島まで、高度な知識を求めて優秀な若者がこぞって適塾に集まったため、洪庵先生は広い町屋を買い求めて、適塾を移しました。それが、こちらの建物。

一見、江戸時代の建物がぽつりとオフィス街に佇んでいるようですが、大阪大学が行政や財界の協力を得て東西のビルを撤去して、周囲を史跡公園化したそうです。

こちらが、史跡公園の入り口です。第二次世界大戦における大阪大空襲で、この一帯は焼け野原になったものの、幸いにして適塾は立派に残りました。

日曜なので家族連れや、外国人観光客などで込み合っているかと思いきや・・・全くの杞憂もいいところ。何と、お客さんは私と息子だけでした。下駄箱の靴は、スタッフさんのものだけだったようです。

適塾は、おもての道路に近い部分が塾生たちが勉強したり、寝起きしたりする部屋で、奥は洪庵先生の書斎や、家族の人たちの生活の場になっていました。

今から200年近く前に建てられた家。文化庁が解体修繕工事を昭和の終わりに4年かけて行い、昭和55年から一般公開が開始されました。ごく一部の撮影不可の表示があるものを除き、館内は写真撮影も自由にできます。

佐賀、筑前、越前、土佐、宇和島、足守といった藩は、藩主命でこの適塾に入門者を送り込み、すぐれた医学者、蘭学者を世に生み出しただけでなく、明治維新をもたらす政治の動きに身を捧げた橋本左内や大村益次郎、慶應義塾を創立した福沢諭吉といった著名な門下生もここで学んだのです。そんな空間が奇跡的に戦火を逃れ、大阪市の中心地に存在しているというのに、これほど閑散としているとは・・・もったいない。

淀屋橋の医療翻訳の会社に勤めていた頃から、適塾には勉強を兼ねて足を運んでいたので、私はもう何度来たか分からないほど。息子も、何度か連れて来ています。小学生も無料。

医師であった緒方洪庵は、自身も体調を崩しがちで、もともと身体が丈夫ではなかったといわれます。それでも、ほぼ毎日往診に赴いて、開業2年目にして大阪の医師番付(当時の大阪では、病気の人をよく診てくれる評判の良い医師に相撲の位をつけた番付を作っていたのです。)に登場し、前頭から関脇、大関へと、たちまち出世していきました。

洪庵先生の実地医療面での功績は、二つ挙げられます。一つは、1849(嘉永2)年に日本にもたらされて間もない牛痘種痘法を、大阪から西日本各地に広めたことです。この時代、世界中で恐れられていた病気「天然痘(てんねんとう)」は感染力、死亡率共に高く、大勢の人が亡くなりました。オランダから日本に伝えられた新しい西洋医学(蘭学)は、この天然痘を防ぐ方法を見つけたのです。牛の病気である牛痘(ぎゅうとう)に軽くかかることで、天然痘にかからないですむことを発見しました。天然痘の予防接種、これが牛痘種痘法でした。洪庵先生は、適塾の近くにこの予防接種の為のセンター、除痘館をつくって無償で技術の継承を全国からやってきた医師に行って、社会のため尽くしてくれました。

ほぼ垂直の、まるで壁のような階段を上って塾生の部屋がある二階へ。息子は怖がって後ろ向きに上りました。

緒方洪庵の二つ目の先駆的な功績は、1858(安政5)年のコレラ大流行の際、治療法が書かれた蘭書をいち早く翻訳して、現代の予防医学や公衆衛生の発展に寄与したことです。一人でも多くの命を救うため、わずか5,6日で出版した書籍は他の医学者から不備の指摘を受けたりと、バッシングも少なくなかったようです。それでも、病に苦しむ人を救うため、社会に対する責任感を自身の使命とするようなところがあったといわれます。

息子が見ているこの柱は、おもて通りからすぐ上の2階の塾生大部屋の中央柱です。32枚もの畳を敷くことのできる部屋ですが、1人当たり畳み1枚の面積で生活していたそうですから、この部屋に32人の血気盛んな若者が寝泊まりし、勉強していたのです。成績の良い人は壁際など人の通らないところを占領することができましたが、成績が悪いと居心地が悪いスペースに追いやられ、喧嘩になることもあったのでしょう。刀傷が肉眼でも容易にわかるほど沢山、柱に刻まれています。

まるで忍者のような生活を、江戸時代の人たちは家の中でもしていたんだね、と息子。

適塾の中で優れた人が選ばれる、塾頭(じゅくとう)の一人が、福沢諭吉です。福沢諭吉の有名な伝記「福翁自伝(ふくおうじでん)」の中にある記載が、私の信念の一つ「努力は裏切らない」のバックボーンです。ご紹介させてください。

日に日に進歩していく西洋の学問の書物を読むことは、日本国中で、自分たちの仲間だけができることだ。自分たちは、貧乏をし、苦労をし、粗末なものをまとい、粗末な食べ物を食べていた。しかし、頭の力やものの考え方は活発で、高くすぐれていたから、そのことでは、王様や貴族をも見下すくらいの気構えがあった。とにかく、むつかしければ、それがおもしろく、苦しい事の中に、楽なことがある。苦しい事が、そのまま楽しいことになる。

適塾を出ると、すぐ大阪市役所も並ぶ御堂筋、淀屋橋駅があります。平日と比べ、人通りはとても少ないです。

江戸時代から令和へ、タイムトリップしてきた気分です。時代は変われども、変わらないものもあるのだなぁと、思いにふけりながら帰路につきました。

医学というものは、お金儲けのためのものではなく、人を救うためのもの。緒方洪庵さんは、人間に対する愛が医学の中心あるのだということを、自身で翻訳した「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」の著者であるドイツ人医学者から学んだことを記した「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」で書いています。

医者というものは、楽をしようとか、名誉を得たいとかを考えないで、自分のことよりも、ただ人を救う事だけを願いなさい。人の命を守り、病気をなおしてあげ、病人の苦しみを和らげてあげることだけを考えなさい、とも洪庵先生は書いています。

翻って、現代の病院。
本来、医師は目の前の患者さんがお金を持っていないことを理由に診療拒否してはいけないことになっています。でも、行政書士法人ひとみ綜合法務事務所のお客様で、生活保護を申請中でまだ決定がおりていない方から、

「病院に行ったけれど、診察代が払えないならうちでは診られないと言われた」
「薬代を払えないなら、ほかへ行ってくれと言われた」

といった相談が、実に多いのです。言葉だけ読むと、まるで時代劇のセリフのようだと思うのは、私だけでしょうか・・・。

医師法の存在や条文をお客様に説明し、窓口でご自身で交渉してもらうと、たいてい診察はしてくれます。でも、内心は、しぶしぶ・・・といったところでしょうか。

先月の台風19号の被災地においては、暴風雨の中、避難所に身を寄せた路上生活者が、「住所がない」ことを理由に拒まれたことは大きく報道されたので、記憶に新しいでしょう。

アフガニスタンのカルザイ前大統領は、先月亡くなった緒方貞子さんを、次のように評しました。
「日本人の気高さや善良さ、寛大さを代表する素晴らしい人物」

家族や友人のみならず、困っている人がいたら、知らない人でも、助けてあげる、手を差し伸べてあげる。そんな優しい社会で、息子には安心して成長してほしい。いつも仕事で忙しく社会にお世話になることの多い、働く一母親として願った、日曜日の午後でした。