ブスの処世術1

コロナ禍で急速に進展したデジタル行政に戸惑う一般の方と行政の架け橋となるべく、専門エンジニア在籍IT特化の行政書士法人ひとみ綜合法務事務所は東京五輪閉幕の3連休も休まず全国迅速対応。

土曜の今日も、生活保護新規相談が4件、ほか申請準備段階のお客様、保護受給中のお客様からのご相談複数、入管業務や帰化申請業務、月次支援金事前確認と申請代行にお客様の事業所までスタッフが出向き、ウェブでの事前確認も夜22時まで予約が入っています。

連休前は、行政書士が投稿したYoutube動画が主に同業者・他士業間で物議を醸し、問題動画の削除と謝罪動画の公開、その後再び今度は謝罪動画への非難が殺到しました。内容は行政書士全体の品位を落としかねないものでもあるため、ここでは割愛します。ただ、実際には削除された動画のコピーも出回っているようで、あらためて一度インターネット上に公開されたものは瞬時に世界に拡散され、消すことは困難なのだと実感します。

選手へのSNS(ネット交流サービス)を通じた中傷投稿が相次いだことから、2012年ロンドンオリンピック以降選手たちにSNSの積極活用を推進してきたIOC(国際オリンピック委員会)もSNSの長所と短所を見極め、選手を守る仕組みの構築や対策を検討していることでしょう。
試合の内容だけでなく人種差別的な中傷も見られ、本人の尊厳を傷つけるような投稿は匿名のネット社会だからといって決して許されるものではありません。

行政書士の私自身もまた、インターネット上で誹謗中傷被害を受けたことがあります。犯人特定後は、内容証明で警告および慰謝料請求することもあれば、名誉棄損で刑事告訴、民事提訴、いずれも経験しています。幸か不幸か、各手段別の文書も多数作成したため、同様の被害に遭ったときはそれらをテンプレートとし迅速な対応に役立てています。

被害者がこうした法的措置を取ることも一つの選択肢ですが、心無い中傷により精神的ストレスを抱え、心に大きなダメージを受け、仕事や私生活に悪影響を及ぼすこともあるので、SNS事業者には、そもそも悪質な投稿を減少させる策を講じてもらいたいものです。

ここから先は、大人になって行政書士になった私が、いかなる困難にぶつかっても冷静に街の法律家として対応できる所以でもある、過去のいじめや過酷な家庭環境について、「ブス」というテーマで書いた昔の文章をご紹介します。

殺伐とした現代社会を生き抜くため役に立つ、(わりと)ためになることも書いてあることに気づいたので、公開することにしました。行政書士業務と関係ない内容ですので、お時間と興味がある方限定で以降はお読みいただくことを推奨します。

ブログ中の写真は、行政書士法人ひとみ綜合法務事務所で以前アルバイトをしてくれていた、若手人気アーティスト萌白さん(芸名)が先日テレビ番組に出演されたときのものです。本文とは一切関係ありません。

『ブスの処世術』

自分がブスで、社会のストレスのはけ口として、世の中の不幸を請け負っている、などと思っている方にこそ読んでいただきたい。

まえがき:ブスに生まれてきていなかったら、私の人生ここまで墜ちなかった。35年間生きてきて、今まで何度そう思ったことだろう。性格が悪くたって、美人ならあんな扱いは受けなかったはず。いや、そもそもブスに生まれなかったら、性格もこんなにひねくれなかったかもしれない・・・。

この本は、ブスに生まれた私がひねくれた挙句に性格も超ブスになって、みんなに嫌われていった話。書くのは勇気がいることだったが、ブスの私が性格もブスになって、しかも居直ったことで不幸のどん底に落ちていった実話を読んでもらえたら、少しは人の役に立てるのではないかと思った次第だ。どうか私(自称世界一のブスだった)を反面教師にして、幸せな人生を歩んでほしい。

それから、1つ断っておきたい。ブス、ブスと言っているが、それは私自身に言っていることなので、気を悪くしないでほしい。顔かたちで美人だとかブスだとかかわいいだとか、そういう(わけではない)のはおかしい。

それは明らかに間違って受け止められている。世の中の基準としてのブスとは、果たしてどんな基準だろうか。

100人中100人がブスというかどうか?実は、そうでもない。個人差が大きい基準なのだ。私が自分をブスというのは、中身がブスになってしまったから、だから私は「ブス」だったのだ。そしてわたしは断言する。顔、「外見」より、「中身」が大事なのだ。

私は、ブスのコンプレックスに打ち勝てず、ダイエットをしたり、脱毛やエステをしたり、きれいな服を買ったり、メイクに凝ったりした時期もあった。それでも、私はブスで、そしてブスはブスだと思った。いや、正直に言うと、もう自分はブスではない、そう信じてしまったことも何度もある。でも、その度に「事件」が起こり、その度にブスな自分を自覚せざるを得なかった。

「顔」ではなく他に勝負できることを磨けばよかった。だけれども、私はそれができなかった。幸せな家庭に育ったわけではなかった。小中学校では、いつもいじめの対象だった。あるきっかけで突如勉強に目覚め、鏡も見ずに顔や髪を洗う時間も最小限にして、ますます清潔感のないブスになっていた。

何でもって勝負できるのか、知り得る手段も知恵もなかったころの私。

そうはいっても、私は一時期「優等生」になったこともある。偏差値は70を超え、高校はトップ公立校に進学し、大学も超一流といわれるところ(進学した国際基督教大学ほか、上智大学文学部教育学科は英語、小論文、面接で10人募集の狭き門だった。余談だが、上智大学スペイン語学部に数年後進学した妹は、『お姉ちゃん、後ろ姿はミスソフィア(上智大学ミスキャンパスの呼称)にそっくり』と宣った)に合格した。

一心不乱に努力をし、手に入れたその「自信」さえ、ブスのコンプレックス、ブス根性がとことん、私が私であることを許さなかった。

まあ、私の生まれ育った環境で育まれた根性の悪さも確実に影響して、このような私の不幸で人様からかわいそうと同情される今がある。そうはいっても、やはりブスでなければここまで墜ちることはなかった・・・ハズ・・・と思ってしまう私もいる。やっぱり、まだまだ反省が足りない。ブスの救世主は、いや、ブス根性女子にいかなる救いがあるのだろうか。救世主(=メシア)の登場を願って読み進めてほしい。


右の萌白さんが描いた絵について言及されているのは、マツコ・デラックスさん

第一章 私はカワイイ・・・ハズ

ここでは、「私=ブスだった私」の子供時代~中学生までの実話エピソードをご紹介する。脚色は一切つけていない。相当厳しい内容も含まれている。だから覚悟してほしい。そしてこれが「ブス根性」を育て続けた私の正真正銘の子供時代だ。

〇「ブス根性女子」が幸せだったころ

3歳で両親が離婚して、父親が家から出ていく姿を見送るまでは、私は幸せだった。一点の曇りもない晴天の下、両親の愛情を一身に受け、天真爛漫だった。美しい祖母(私の母は養女だったため残念ながら血のつながりはない)と優しい祖父が日中は私の世話をしてくれた。「可愛いかった私」は、母、警察官の父と妹の4人暮らしだった。

私が生まれた頃に建てられた大きな一軒家は、掃除好きの祖母が部屋中いつもピカピカに磨きぬいていた。何よりも祖母の作る料理が美味しかった。おぼろげながら、父が洗面所で磨き抜かれた鏡に向かい、笑顔で歯磨きをしていたことも覚えている。夏には祖父が和寝室で丹精こめて庭で育てたキュウイを剥いてくれた。大正生まれの祖母は、背が高く、すらりとした立ち姿が優美でそして優しく微笑みながら、住まいを守っていた。

しかし、そんな「可愛いかった私」幸せは数年のことだった。周知のとおり「ブスだった私」人生は圧倒的に長い。

〇私はカワイイと錯覚していた「ブス根性女子」の幼少期

いつの日からか、父の姿を家で見ることがなくなっていた。おぼろげながら、父と母が大声で怒鳴りあい、祖母が私の手を引いて近所に連れ出され、わたしは百貨店の屋上で遊んでいたことを覚えている。

父がいなくなったことは、子供ながらに誰にも聞いてはいけないことだと思い、決して母や祖父母には触れることはしなかった。ブスだった私は子どもの頃はそれなりに勘の鋭い、空気が読める賢い子だったようだ。当時、周辺に片親家庭はなかったように記憶している。

「うちにはパパはいない」というコンプレックスというよりは、単純に父がいなくなって寂しい気持ちが大きかった。当時、保育園に通っていた私は、キッコちゃんというかわいい女の子-いつも綺麗な服を着て、人気者。私にとってキッコちゃんは憧れだった。ブス根性一歩手前の私も「ひとちゃん」というかわいいあだ名で呼ばれ、自分もキッコちゃんと同じようにカワイイと思っていた。いや、思おうとしていた。

保育園では、手の込んだ意地悪をする子、まずそんな知恵もない年頃なのだけれど、ブス・コンプレックスは感じていなかった。そうはいっても実は「先生」がとてもおっかなかった。そんなわけで、保育園は実は相当嫌いだった。近所の子達はみんな幼稚園に行っていて、朝もゆっくり家を出て制服で楽しそう、と、うらやましく思っていた。そう保育園の外では、この頃からじわりじわりとブス根性が芽ばえ始めていたのだ。

〇「イジラれて辛かった」小学校生活

いつしか祖父も家から消えた。後でわかったことだが、数年後に、実は祖父は入院して亡くなっていたようだ。子供には悲しい思いをさせないようにという、母と祖母の「大人の配慮」だったのだろう。その後、祖母は腎臓病が悪化し、発作を起こし、苦しむ姿を何度もみた。美しかった祖母がやせ細っていく姿をみるのは物心つかない私にもつらかった。そして、祖母はとうとう家事が全くできなくなった。

あの美しかった大きな家は、あっという間に「ゴミ屋敷」と化した。ブス根性女子の母は「片付けられない女」だったのだ。誰も掃除をしないので、汚れはどんどん蓄積され、小学1年生のブス一歩手前の私になす術はなかった。そして、わたしはアトピーやアレルギー性鼻炎を発症した。今では明らかになっていることだが、汚部屋が一因だったといえる。そして、小学校では「イジラれキャラ」を一人で請け負った。何の選択肢もなく。

クラスメートのサト子が司令塔となり、ブス一歩手前だった私の物を隠させたり、悪口を言いふらさせ、ハブられた。今でも、あれはひどかったと思う。哀れな私は家に帰っても、病に伏せる祖母に泣きつくこともできず、家族に心配かけまいと気丈に振る舞っていた。そう、私のブス根性は家の汚れとは裏腹に磨き抜かれていくのだった。

〇私、ブスだ、なんて!そんなハズない・・・って思っていた

ある日、「ワタシって、カワイイかなぁ?」と、近所のかわいいマイちゃんに聞いたことがある。マイちゃんは顔がかわいいだけではなく、とても心根が「優しい子」だった。マイちゃんは私の目をじっ~とみつめて、「うーん、特にかわいいわけではないけどブスでもないよ。フツーじゃないかな・・・」と言うのだ。衝撃を受けた私は家に帰るやいなや、薄汚れた鏡の前で、懸命に自分の顔を食い入るように見た。え・・・、カワイイと思うんだけどな・・・マイちゃん、嘘ついたんだ。絶対・・・信じないもん!

そう思いこむ、ブス根性女子一歩手前の私だった。が、マイちゃんの放った言葉は、その後も時折私に耳打ちした。「私、かわいいわけじゃない?え、フツーなの?」かわいいはずの自分が、フツーなんて嫌だった。マイちゃんやアッちゃんは目の上に「シワ」がある。だけど、私には「シワ」ひとつない。小さなかわいい黒目が見えるだけ。カワイイ黒目、カワイイ一重の自分の瞳をみつめ続けた。

子どもの頃は自分をブスだなんて誰もいえやしないのだ。


こちらは美しい萌白さんが「林先生が驚く初耳学」に出演時のもの

〇カワイイ臨界点~小学3年生

私のブス差別デビューは小学校3年生だった。初めて学校でブス差別を受けたのだ・・・今から思うと。クラスのボス男が、彼の誕生会に呼びつけた女の子たちは「カワイイ子」だけだった。

そして、「イジり番長」サト子が転校した。わたしの平和な時代がやってきたのだ。その当時のブス一歩手前女子私にとって学校生活は平和だった。素直に明るく笑うと、ブスもそれなりにカワイイものなのだろう。この頃の写真をみると、無邪気でかわいいと思う。

生まれ持ったかわいい顔の子はいるが、生まれ持った「ブス根性」というものはないのだ。しかし、その平和は4年生でもって倦怠期を迎えることとなった。果てしないブス道を極めた私ではあるが、明るく笑っていたあの頃、「ブス根性」ではなかったのだ。

〇祖母の「泣かナイで行ってコイよ」を励みに

家は散々、放置され、ついでの私も放置された。洗濯もしてもらえない。いつも定番の服、同じ服を着て登校していた。夏場に、洗っていないTシャツを3日連続で着ていったときは、さすがに気持ちが悪かった。でも、着ていく服がなかった。ゴミ屋敷にはゴミしかなく、山積みのゴミと洗濯物を前に、小学生の私はその「片付け方」がわからなかった。とはいえ、家庭科授業が始まった5年生になると、学校で知恵を授かり、「せっけん」を塗り付け、手洗いで自分の服を洗うようになった。今から思えば、小学校3年生の私はそんな知恵がなかったのだ。

荒れ放題の家で、精神不安定だった、ブス根性一歩手前女子だった私は、学校へ行っても、勉強もスポーツもできなかった。

そうして私は、イジラれターゲットになったのだ。ぼーっとしている間に「犯人」にされたことが何度かある。いきなり、「5千円を返せ」と言われたことがある。クラス全員から「5千円借りるなんて信じられない」「500円だって大金なのに」「返せよ、ドロボー」といわれた。私は何とかしなければと子供心に考え抜いた。

そして、夜になると、病床に伏せる祖母のタンスから、祖母が集めていた記念硬貨の500円玉を数枚取っては、クラスメートに渡した。いじめのことを家族に悟られてはいけない・・・そう信じ、家では異様に明るく振る舞った。湧き上がる罪悪感とどうしょうもない悲しみをこらえて家を飛び出した。登下校は「立ち入り禁止」の山道、涙を一杯流し、大声で叫びながら独りで帰った。家では絶対に涙も声も出せないから。

時折、祖母が「泣かないで行ってこいよ」と言う。そのとき、涙をこらえるだけで精いっぱいだった。声にならないつらさを堪えるのに必死で家を出た。そして、独り山で誰もいないことを確かめて、泣いた。

私は小学3年生の頃から、「死にたい」そう思うようになってしまった。あのビルから飛び降りたら、今より楽になるのかな。何度も楽に死ねる方法を考えるようになっていた。

その反面、気丈に懸命に逞しく、無意識に生きる目標も探していたのだ。
「パパが今度、旅行に連れて行ってくれる」
「だから死ぬのは、旅行に行ってからにしよう」と。

次回ブログに続きます。→ブスの処世術2

ブスの処世術 目次
ブスの処世術1
ブスの処世術2
ブスの処世術3
ブスの処世術 最終話